スポンサーサイト
映画にみるカタルシス~前編~

カタルシスという言葉をご存知でしょうか。意味は「心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されること」です。
簡単な例を挙げれば「散々悪者にいいようにされていたけど、最後はスカッとヒーローが倒してくれたぜ。HAPPY!」ってところでしょうか。なお元々は演劇用語で、転じて精神療法をさすようになり、一般化したそうな。
映画においてもカタルシスは常用されています。ストーリーの過程で視聴者が悲観的になるような展開も、最後は上手くまとまってスッキリして終わるものが多いんじゃないでしょうか。
特にアクション映画なんかでは、動きのある画も相まってスカッとさせる効果が重複されるような気がします。
簡単ではありますがカタルシスとは~、というのが何となくわかったでしょうか。僕の中でカタルシス映画の最高峰は

ダイハード

フェイス・オフ
ですね。カタルシスとは精神世界の浮き沈みを表す言葉ですが、映画を視聴した人がカタルシスを感じるにはある2つの要素が必要となります。
まず1つ目の要素は「制約」です。抑圧と言い換えてもいいでしょう。上に挙げた二作の主人公は共通して環境もしくは状況に縛られています。ダイハードのマクレーンは「人質」「巨大密室ビル」という二つの制約下で、テロリストと戦います。多勢に無勢、雁字搦めの状態でがむしゃらに立ち向かう姿は興奮すら覚えますよね。
一方フェイスオフではさらなる制約がアーチャーを襲います。「犯人と顔が入れ替わる」という超ド級の制約です。最早説明不要の最悪な状況下で彼はキャスター・トロイを打ち倒します。
ビジュアルと音響で訴える映画において、登場人物の精神世界を覗くのは容易ではありません。というか無理でしょ。
そこで登場人物に圧力をかけるのです。苦しい状況の中でもがく主人公。いつしかその挙動に引き込まれ共感する我々はEDで壮大なカタルシスを得ます。

ダーーーーーイッ!!!
では二つ目の要素は何か。当たり前ですが作品を「未見」であることです。これは予見と言った方が正しいかもしれません。例えば90年代までのシュワちゃん映画を視聴していて「うわ、シュワちゃん今回負けるやん」って思いますか?沈黙してるセガールが戦っていて「セガールも潮時やな。負け負け」って思いますか?

これは凄く大事な要素です。俳優のバックボーンが透けて見えるとカタルシスを得るのは途端に難しくなります。カタルシス俳優、と勝手に名付けますがブルース・ウィリスやニコラス・ケイジ&トラボルタは、演じてきた役の幅が広いからかどんな映画に出ていても「哀愁」に似た侘しさが漂っています。この危うさを匂わして、最後はスカッと決めるのはカタルシスの真骨頂と言えましょう。
ただ最近はシュワちゃんも円熟味を増し、カタルシスを得るような映画に恵まれているように感じます。このシュワちゃんの変化については後編でもう少し紐解くと思います。

セガールは…うん、まぁね。とりあえず痩せよ。
てなところで前編はここまで。後編では「カタルシス=面白さなのか」という部分に触れていきたいと思います。